寺山修司とは
地球儀を見ながら私は「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」と思つていたのである。
歌集『田園に死す』(1965)-跋-
寺山修司とは、一体何者なのか。
俳句、短歌、詩、ラジオドラマ、小説、演劇、写真、映画のみならず、歌謡曲の作詞、ジャズ・ボクシング・競馬の評論、テレビドラマやドキュメンタリーなど、寺山が席巻し功績を残したジャンルはあまりにも多岐にわたる。さらに、活躍の場が日本国内には留まらない。そのため、全体像を掴み取るのが甚だ難しい。本人も「職業は寺山修司」と宣言したくらいだ。
また、寺山修司の創作が常に社会を挑発し、問いかけることであるとするのなら、寺山修司研究は、寺山修司を研究するだけでは済まない。寺山修司を理解するために「寺山修司」で考える姿勢も必要になってくる。つまり、寺山の質問を共有し、寺山のように思考したとき、初めて寺山修司の端緒をつかむのだ。
寺山は煽情的に叫ぶ―「百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」と。
いつの時代になっても、常に未来から送り届けられた言葉として受け取れるのが、寺山修司なのである。
立正大学准教授
葉名尻竜一
寺山修司略年譜
1935(昭和10)年 0歳
12月10日 寺山八郎、寺山はつの長男として青森県弘前市紺屋町に生まれる。(戸籍上は1936年1月10日生)
1941(昭和16)年 5歳
父、出征。母とともに青森市へ転居。
1942(昭和17)年 6歳
青森市立橋本小学校に入学。
1945(昭和20)年 9歳
青森市大空襲で焼け出される。三沢駅前にある父方の伯父が営む寺山食堂の二階に間借りする。
古間木小学校に転校。父、戦病死。母は三沢基地のベースキャンプで働く。
1948(昭和23)年 12歳
古間木中学校に入学。「週刊古中」を編集・発行する。
1949(昭和24)年 13歳
青森市の母方の大叔父(映画館歌舞伎座を経営)宅に引き取られる。母が福岡県芦屋町のベースキャンプに勤めに出る。
青森市野脇中学校に転校。「野脇中学校新聞」に、俳句、短歌などを発表する。
1951(昭和26)年 15歳
青森県立青森高校に入学。新聞部、文芸部に参加する。
「東奥日報」へ短歌、俳句を投稿しはじめ、以降「暖鳥」「寂光」「学燈」「蛍雪時代」等に自作を精力的に投稿する。
1952(昭和27)年 16歳
学生俳句雑誌「山彦」(のちに「青い森」)発行。
1953(昭和28)年 17歳
全国高校生俳句会議を組織、全日本学生俳句コンクールを主宰。
1954(昭和29)年 18歳
全国の高校生に呼びかけて俳句雑誌「牧羊神」を発行。早稲田大学教育学部国語国文学科に入学。
「チェホフ祭(原題は「父還せ」)」で「短歌研究」五十首詠募集特選となる。この時いわゆる〈模倣問題〉が起こり、
その弁明をする。ネフローゼを患い、立川市の河野病院に入院。
1955(昭和30)年 19歳
病気が再発し、生活保護を受け、新宿の社会保険中央病院に入院。早稲田大学の友人・山田太一と手紙をやり取りする。
1956(昭和31)年 20歳
詩劇グループ「ガラスの髭」を組織し、初めての戯曲「忘れた領分」を書き、早稲田大学「緑の詩祭」で上演される。
1957(昭和32)年 21歳
最初の著作となる作品集『われに五月を』(作品社)刊行。
1958(昭和33)年 22歳
第一歌集『空には本』(的場書房)刊行。谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書きはじめ、1作目の「ジオノ」(RKB毎日)が
放送される。
1959(昭和34)年 23歳
二作目のラジオドラマ「中村一郎」(RKB毎日)で民放祭連盟会長賞受賞。
1960(昭和35)年 24歳
ラジオドラマ「大人狩り」(RKB毎日)が物議をよぶ。戯曲「血は立ったまま眠っている」を劇団四季が上演。
篠田正浩の映画「乾いた湖」のシナリオを書く。映画「猫学Catllogy』」(フィルム現存なし)を監督。
初めてのテレビドラマ「Q」(TBS)を書く。小説「人間実験室」を「文学界」に発表。
この頃より、テレビ・ラジオのシナリオを精力的に執筆。
1961(昭和36)年 25歳
文学座アトリエ公演の戯曲「白夜」を書く。ボクシング評論を書きはじめる。
1962(昭和37)年 26歳
人形劇団ひとみ座に戯曲「狂人教育」を書く。第二歌集『血と麦』(白玉書房)刊行。
1963(昭和38)年 27歳
九條映子(後に今日子)と結婚。『現代の青春論』(後に『家出のすすめ』と改題)(三一書房)刊行。
1964(昭和39)年 28歳
放送詩劇「山姥」(NHK)でイタリア賞グランプリ受賞。放送詩劇「大礼服」(CBC)芸術祭奨励賞受賞。
ラジオドラマ「犬神の女」(NHK)で第1回久保田万太郎賞受賞。
1965(昭和40)年 29歳
ラジオドラマ「おはようインディア」(NHK)で芸術祭賞受賞。第三歌集『田園に死す』(白玉書房)刊行。
『ひとりぼっちのあなたに』(新書館)を刊行し、以降若い女性読者向けのシリーズを数多く手がける。
1966(昭和41)年 30歳
ラジオドラマ「コメット・イケヤ」(NHK)でイタリア賞グランプリ受賞。
テレビ「あなたは……」(TBS)で芸術祭奨励賞受賞。
エッセイ『競馬場で会おう』(華書房)、小説『あゝ荒野』(現代評論社)刊行。
1967(昭和42)年 31歳
演劇実験室「天井棧敷」を設立。初期メンバーには横尾忠則、東由多加、九條今日子、萩原朔美など。
「青森県のせむし男」、「大山デブコの犯罪」、「毛皮のマリー」、「花札傅綺」を上演。
映画「母たち」でヴェネチア映画祭短編部門グランプリ受賞。ラジオドラマ「まんだら」(NHK)で芸術祭賞受賞。
テレビ「子守唄由来」(RKB毎日)で芸術祭奨励賞。『書を捨てよ、町へ出よう』(芳賀書店)刊行。
1968(昭和43)年 32歳
競走馬ユリシーズの馬主になる。ラジオドラマ「狼少年」(RAB)で芸術祭奨励賞。
「新宿版 千一夜物語」、「青ひげ」、「伯爵令嬢小鷹狩掬子の七つの大罪」、「書を捨てよ町へ出よう」、
「星の王子さま」などを上演。
『誰か故郷を想はざる―自叙伝らしくなく』(芳賀書店)刊行。
1969年(昭和44)年 33歳
渋谷に天井棧敷館落成(デザイン・粟津潔)。こけら落としは「時代はサーカスの象にのって」を上演。
演劇雑誌「地下演劇」創刊。作詞したカルメン・マキの歌「時には母のない子のように」が大ヒットする。
初の海外公演となるフランクフルト前衛国際演劇祭EXPERIMENTA3に「毛皮のマリー」と「犬神」で参加。
以降、海外での公演を重ねる。
1970(昭和45)年 34歳
漫画「あしたのジョー」の登場人物・力石徹の葬儀を演出。市街劇「人力飛行機ソロモン」を高田馬場・新宿で上演。
ニューヨークのラ・ママ劇場にてアメリカ人俳優による「毛皮のマリー」を演出。
1971(昭和46)年 35歳
映画「書を捨てよ町へ出よう」でサンレモ映画祭グランプリ受賞。
「邪宗門」を仏・ナンシー国際演劇祭、ベオグラード国際演劇祭などで上演。市街劇「人力飛行機ソロモン―ナンシー篇」
(仏・ナンシー国際演劇祭)、「人力飛行機ソロモン―アーヘム篇」(オランダフェスティバルソンズビーク71)を上演。
『寺山修司全歌集』(風土社)刊行。
1972(昭和47)年 36歳
野外劇「走れメロス」(ミュンヘン・オリンピック記念芸術祭)、「阿片戦争」(アムステルダム・メクリ劇場)などを
上演。
1973(昭和48)年 37歳
街頭劇「地球空洞説」を高円寺東公園にて上演。
「血の起源」(イラン・シラーズ・ペルセポリス芸術祭)、「盲人書簡」(アムステルダム、ポーランド)などを上演。
1974(昭和49)年 38歳
映画「田園に死す」で文部省芸術選奨新人賞、カンヌ映画祭正式招待される。
実験映画「ローラ」でベナルマデナ映画祭特別賞。
初の写真展「寺山修司・幻想写真館」(ギャラリー・ワタリ)で開催。
1975(昭和50)年 39歳
東京・杉並区一帯で市街劇「ノック」を上演するも、市民を巻き込み警察が介入、新聞の社会面をにぎわす。
「疫病流行記」をオランダ・ドイツで上演。実験映画「疱瘡譚」と「審判」でベナルマデナ映画祭特別賞、「迷宮譚」で
オーバーハウゼン実験映画祭銀賞受賞。
1976(昭和51)年 40歳
渋谷の天井棧敷館が閉館し、新たに元麻布に開館。「阿呆船」(イラン・シラーズ・ペルセポリス芸術祭)を上演。
演劇論集『迷路と死海―わが演劇』(白水社)刊行。「寺山修司・鏡の国のヨーロッパ展」を池袋西武百貨店で開催。
1977(昭和52)年 41歳
「寺山修司の千一夜アラビアンナイト展」を渋谷西武百貨店で開催。
フランスの写真雑誌「ZOOM」の日本特集号を単独編集。西武劇場プロデュース「中国の不思議な役人」を上演。
実験映画「二頭女―影の映画」でベナルマデナ映画祭特別賞、「マルドロールの歌」で
仏・リール国際短篇映画祭国際批評家大賞受賞。
1978(昭和55)年 42歳
「奴婢訓」で東京、アムステルダム、ベルギー、ロンドンなどを巡演。「身毒丸」、「観客席」を上演。
1979(昭和54)年 43歳
公開ワークショップ「犬の政治学」、「レミング」、西武劇場ブロデュース「青ひげ公の城」上演。
映画「草迷宮」公開。肝硬変のため入院。
1980(昭和55)年 44歳
「観客席」上演。「奴婢訓」をアメリカで上演。
1981(昭和56)年 45歳
肝硬変の病状が悪化し北里大学附属病院に一か月入院。映画「上海異人娼館(チャイナ・ドール)」公開。
「百年の孤独」上演。
1982(昭和57)年 46歳
映画「さらば箱舟」(1984年公開)を監督。詩「懐かしのわが家」を『朝日新聞』に発表。
「奴婢訓」のパリ公演が最後の海外公演となる。最後の演出作品「レミング―壁抜け男」を上演。
谷川俊太郎とビデオレターをはじめる。
1983(昭和58)年 47歳
5月4日、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発し死去。享年47歳。
エッセイ「墓場まで何マイル?」が絶筆となる。
7月31日、演劇実験室天井桟敷解散。「レミング―壁抜け男」が最後の公演となる。